高学歴は果たして得なのか?

下記の記事を見て、ふと共感しました。

「勉強ができることは「勝ち組へのパスポート」 ではなかった――生きづらさから傲慢だった発達障害の私。就活挫折と仕事での苦難から気づいたこと」

著者と同じく、私は、中学・高校生の頃から入社数年後まで、エリートになって、小学校時代から中学校時代にかけていじめた相手をエリートになって見下して見返してやる、という考えでいました。そのために、国立T大学にこだわり、その夢は挫折したものの、何とか東京6大学の某大学を卒業することはできました。

しかしながら、高学歴であるゆえに、トップで某流通企業から内定を取ったものの、「その流通企業(今は業界トップクラスになってしまったが。。)はあなたの学歴が行くところではない」と言われ、親に勧められるがままに某政府系企業に入社。

アグレッシブで自由を重んじ、「私なりに」課題をとことん追求して社会を変えたいという野望を持つ姿勢と、チームワーク重視、ルール重視、前例踏襲、協調性、事なかれ主義が跋扈する社風が相容れるはずがなく、首にはならなかったものの、出世には大きく響いてしまい、同期や年下に使える身となり、今に至っています。

転職しようにも、この職歴では無理、だとか、安定しているから現職に留まったら?の一言で不採用が続き、八方ふさがり。家族の理解も得られず、「組織の中では負け組」のコンプレックスを感じながら悶々としていること間違いありません。一歩踏み出せば、と思っているものの、なかなかその一歩が踏み出せない弱さを感じています。

それにいち早く気づいたこともあり、20代のうちに行政書士の資格を取得。司法書士は7回の受験を経て挫折しましたが、その知識は、現職での不動産管理、債権管理の実務に大きく役立っているし、現在、温めている遠距離介護支援や成年後見支援といった起業後のビジネスプランに大きく役立っています。

著者に比べたら恵まれている方ではないか、と怒られるかもしれませんが、「私の場合、学歴や、喋ったときの理屈っぽさが変に目立つ一方、周囲とうまくなじめないし、仕事はぜんぜんうまくできないので、「勉強ができるならほかのこともできるはずだ→ 人間関係や仕事がうまくこなせないのは本気を出していないからだ、悪意だ」と感じる人が多かったのではないかと思います。」という記述や、「勝ち組とか負け組とか、人を十把一絡げにすることもやめる。見返してやるとか仕返ししてやるとかいった気持ちも手放す。」「そもそも世の中には、勝ち組も負け組もない。ただ、それぞれの多種多様な、他者には想像もつかない人生の苦労を抱えた個人がいるだけ。」には多いに共感させられます。

実際に私も、「いい大学を出ているんだから、人の気持ちなんてすぐわかるだろう!」となじられ、大変つらい思いをしましたし、勉強ができても、社会に出るときに、子供時代からの「こだわりの強さ」により社会になじめない側面が大きく出てしまったのかな、という感じがしていました。実際に大学を卒業するまで、いや、それ以降も自分を偽ってメンツにこだわり、無理を重ねたのは否定できませんが。。。

ただ、大学時代がすべて無駄だったとは100%言えないのも事実です。サークル仲間では実業家として成功したのもいれば、地域の同窓会ではそれなりの影響力を持つ先生方や、尊敬できる事業主の方とも知己になったり、いざというときに頼りになれる人脈を得ることができました。そこは自信をもって言えると思います。学生時代に早く気づいて手に職をつけるべく、訓練すべきだったことは大いに反省していますが。

今は、著者と同様、「自分が自分史上最高に楽で、最高に自分らしくいられる場所を求めていければいい」と感じています。そのために、スキルを磨き、日々精進していくことにはなりますが。

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