仕事のために自分を犠牲にしていないか。
先日、二人の知己の訃報に接した。
一人は高校時代、仲良くしていた同級生。
大阪の板前の息子である彼はもともと、寮に住んでいたが、寮での生活に満足できず、岡山市内に下宿することになり、岡山までの通学途上、ほかの下宿生と共に遊ぶ仲となった。
山形の大学に進学し、そのまま、教員として鶴岡の高校に赴任。20年余り農業高校の教諭として従事してきた。
しかしながら、3年前に突如、旅立たれたことがつい最近発覚。直前まで教諭として、庄内の農業振興のために奔走されたということから、仕事に相当の情熱を捧げてきたことは想像できる。
とはいえ、死後3年、ご家族の消息もつかめない状況。「生きた証」は残せたかもしれないが、異動の多い公務員ということもあってか、現在の職場の関係者は見ず知らずの本人については他人事のように扱っているのか、と私には見えた。
最後に連絡したのが13年前。当時福島にいたことから、隣の県だから遊びに行くよ、と言ったきりである。
今となっては悔やみきれない思いである。
もう一人は前の職場の同僚。
私より10年余り先輩で、交代制の職場でシニアの地位にあったが、昨年末にがんが見つかり、治療の甲斐なく先日に他界した。
自分には非常に厳しく、仮眠時間で2時間を超えることはないぐらい、仕事優先の性格だったように思える。自分の経験を誇りに思い、自分だけでなく、部下や若手に対しても厳しかった。手段が異なるだけでも厳しい指摘をいただいたくらいだ。
どうも共通することは、組織の中での自分の仕事(手段)にこだわるあまり、無理をしていたのではないかと、私なりには思っている。もっと柔軟性があれば、もっとプレイヤーの手段を信頼していれば、本当は楽になれたのに、と思うことがある。そのために自分の命を削っているのはもったいないのではないか、と思うことがある。
働き改革というのは、ただ単に労働時間を短くすればいい、というものではないと思う。自分にとって、家族にとって、自分を大切にしながら、自分のやりたいことと生産性をすり合わせる方法を考える時間を設ける、それこそが働き方改革の本来の目的ではないかと思うようになってきた。
ここ最近は、彼らに向けて杯を捧げていく、そう念じているこの頃である。
彼らに神の栄光があらんことを。